少年二宮金次郎が薪を背負い素読(そどく:いわゆる音読。当時に本を黙読する習慣はない、本を片手で支えて吊革にぶら下がるような格好の金次郎像を見ることがあるが噴飯ものである)しながら歩いている書物は「大学」という本である。

    金次郎の父親の蔵書であるから、この「大学」は当然にも王陽明の編「古本大学(こほんだいがく)」であろう。士大夫(したいふ)、すなわち当時の高級官僚など知識人の学を一般庶民まで広げたのは陽明のグループである。平天下(へいてんか)、治国(ちこく)、斉家(せいか)、修身(しゅうしん)、格物(かくぶつ)、致知(ちち)から朱子が「各物致知」としたものを王陽明は「致良知(ちりょうち)」と転轍、言わば軌道修正する。すなわち道理の認知からその実践という方向付けと言えよう。大学の示す道が「絜矩の道(けっくのみち)」つまり、己が実践して範を示すことにより、これを広く一般に浸透させる事であることを明かにするためである。

    金次郎が生まれた年(1787)に寛政の改革は始まる。改革の中で異学の禁ということで古学・陽明学が公式の学問所で講ずることは禁じられたが、一般にはかえって広がっていった。
    「絜矩の道」 鴎外の「渋江抽斎」に二回の言及がある。鴎外自身が自分の思い入れを込めているのでこれは鴎外自身の座右の銘でもあろう。普通は「恕」のこととされる。自ら糺してみて問題ないと確信できれば人に及ぼしても良いという意味。

    「致良知」から陽明の道は始まる。「善を知り、悪を知る是良知、善を為し、悪を為さざるこれ格物」
    「知る」は知覚の知であり知識の知ではない。善悪はともにわが影でありわが最も親しき友である。ただ善を感知し善を行うこれを「致良知」というだけである。感じて動く、それが人間本来の姿だから。

    抽斎は易の咸(感ずる)の九四「憧憧として往来すれば、朋爾の思いに従う」を自らの行動指針とし人にも折節説いていた。裏切られても人を裏切らない。憧憧として人を仰ぎ、いつも働きかけていく。
    悪を知り悪を為すこれも人間の一面である。以下は悪人マクベスの科白

    Life's but a walking shadow, a poor player,
    That struts and frets his hour upon the stage,
    And then is heard no more. It is a tale     Told by an idiot, full of sound and fury,
    Signifying nothing.

    悪人ながらマクベスは人の世が一種の舞台(皆で演ずる茶番劇の)であることを知っている。つまらない役や演目であっても精一杯演ずることに人間本来の姿がある。

    感覚は新しい刺激には弱いが同じ刺激が続けば鈍磨し、放置すればすぐに眠り込む。感覚を磨くといってもいつの間にか別な方向にはぐれてしまうのがその本性である。悪が悪なりに刺激を求め、更に刺激の強い悪を重ねざるを得ない所以である。感覚はたえず変幻変容しいかなる力も押さえ込むことが不可能な幻獣のような存在である。

    人が他者の善意を心底深く信ずることなどそれ相応の徴(しるし)をもって、もっと言えば天啓のように「神の善意」を信ずることのできる瞬間、電撃のように人を打つ栄光の瞬間、感覚は一瞬にして研ぎ澄まされ透明になって(存在の)本来の姿を照らす。瞬間における「善の発現」こそは「感覚という幻獣」を飼いならす魔法の鞭なのである。チェスタートンはこれを神の哄笑と言った。感覚知を直感行に結び付けていくその方法に功夫(くふう)があり修養がある。金次郎も王陽明も(哲)学者ではない、人生の工作者というのではないだろうか。

    人はいつもその存在に遅れて存在している。

    傲慢は存在と感覚とのずれによって発生する。これでよい、このままでよい、このままでありたいそして何事か良きことの訪れを期待しつつ感覚を眠らせることにこのずれの本源がある。不意を打たれた時の行動への戸惑い、疑義することこれがこのずれの姿である。不意を打たれ存在に徹底的に遅れてしまっていることが感覚に倦怠と疲労を呼び覚ます。倦怠と疲労を飛び越えそこなった時の何事もなかった振りが傲慢の本質である。

    傲慢であることの罰は生まれつき身に添っていた「加護恩寵を」を知らぬ間にひとつずつなくしてしまうことである。これは大人になることといってもよい。大人になるとは普通に人間になることであり傲慢であることは人間であることとほとんど同義である。
    易でいう吉凶悔吝(きっきょうかいりん)の吝すなわち過ちを糾す努力を惜しみ、怠る気持ちがこの人間的な相である。吝である心の状態が凶への次のステップにつながる。したがって大人になることは凶である境涯に耐えることでもある。

    チェスタートンは言う。

    Now, the psychological discovery is merely this, that whereas it had been supposed that that the fullest possible enjoyment is to be found by extending our ego to infinity, the truth is that the fullest possible enjoyment is to be found by reducing our ego to zero.

    心理学的発見の最たるものは自我のインフレ的拡大の行き着くところに至高の喜びはなく、自我をゼロに近づけることの中にこそ真の喜びの発現があると。
    王陽明は「伝習録」のなかで

    「你萌時、這一知處、便是你的命根。當下即去消磨、便是立命工夫」 (我きざしたときこのことを知ることは命のもと、それをただちに消し去ることこそ生きることの工夫)と言う。


    自我とは人間存在のずれそのものである。謙虚さとはいつも感覚が(存在に)遅れてあることについての自覚から始まる。間に合わないで後から来たことを、そのことへのためらいを、良きことへの期待を、知覚を単なる受け身の受容機としてだけでなく未来へ向けたアンテナとして最初から善きことへの方向性にチューニングして振り向けて眠りこまずに待ち受けること。それが善を知り善を為すということの内容である。善悪はわずかな方向性と感覚の使い方の違いに過ぎないのではないか。